波乱万丈❣❣ゆかいな私の父と母❣❣

私の父は、面白い人だった。 

三次の国民小学校をでて、すぐに大阪に丁稚奉公に行かされたが、合わずに飛び出した。転々と職を変え、大人になり、まだ若かった母と出会った頃は海軍の船で調理を担当していたらしい。その船の艦長が母のお父さんで、時々家に遊びに来ていたという。 

三つ編みをして、郵便局に勤めていた頃の母はきっと可愛いかったろう(笑) 

その後母は一度結婚して長男を産んだが、訳あって離婚し実家に戻って来た。その時まだ独り身だった父は再び母と出会い、2人は一緒になることを決めた(笑笑)まだ幼い子供を母の実家に預けて、必ず迎えに来るからと、2人で広島にでた。アンパンをかじりながら線路を歩いたと、母から聞いた(笑) 

お父さんのどこが良かったん?と聞いたら、心の中に空間がいっぱいあったんよ、って(笑)そのいっぱいの空間に、まるごと母を受け入れたんだろう(笑笑) 

父の田舎では、好き勝手に生きる父を勘当したらしく、父は母の姓を名乗った。 

岩国を出て、しばらくは田舎の父の姉のところで世話になっていたが、芸北の冬場の極寒に母の身体が耐えられず、広島に出た。被爆後、10年に満たない広島だ。 

父は馬を飼い、馬車で運送業を始めた。だが気性の荒い馬で、気弱な母を馬鹿にするように、母はよく鼻息で笑われたらしい(笑) 

ある時は、荷物を降ろしたあと、父をおいて勝手に家に戻って来たり、またある時は線路の前で急停車して、勢いあまって飛ばされた父は、店にかけてあった簾に落ちて一命をとりとめた(笑)という。時がたち、バタンコという三輪トラックの運送に変わったが、それからも転々と仕事を変え、最後はH設備工業という名前で、頼まれた仕事をいろいろ請け負っていた。愛嬌のある、ひとなつこい人柄でお得意さんも増えていった(笑)母の誠実な支えが、信頼をえた因でもあるが(笑笑) 

よく働く父は、よく遊んだ(笑)麻雀、競輪、競馬、競艇…オシャレも好きで、勝手にあつらえたジャケットの請求書が母に届いたこともある。今思うと、母は相当苦労したに違いない。ただ、父は、母を愛しく思っていたんだろう。母の服は、必ずといっていいほど一緒に選んでいたし、母が遠出するときは、父がお弁当を作っていた(笑)こともある 

父が晩年、肝臓がんになった時、母はずっと肝硬変だと父に伝えていた。医者から余命3か月と言われたが、母の変わらぬ姿と祈りで、父は4年ながらえた。入退院を繰り返しながらも、やり残した仕事をし、広島城で花見をし、田舎に帰って皆に会い、やりたいことを一つずつ思い出にして、母と兄と姉と私、みんなに看取られて、生き切った❣❣ 

沢山の人たちに、迷惑もかけたが、沢山の人たちのお世話もし、愛された父は幸せだ(笑笑)